雨と紅茶と椅子のうえ

愛想くらいはいい子でありたい

時間泥棒はいない(執筆3日目)

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「あれ?今日は何日だっけ?」

歩きながらふと思い出せば今はもう7月15日。
この前までまだ4月だったのに?つい昨日梅雨入りしたのに?

流れる時間の中で、流されるがままに生きているけれど、ふっと立ち止まり時間を再認識するあの瞬間はちょっと怖い。ふいに自分が置いてけぼりにされているようなあの感じ。

LIGに入ってからは、家に着いたころには大体12時を回っているし、お風呂に入ってTwitterをいじって眠りについたら、次目を開けたときにはもう朝だ。
その上、朝の苦手なわたしはギリギリまでお布団と仲良くしてしまうので、優雅にコーヒーを楽しむ間なんてなく、手の残像が見えるのではないかというほどの速さで準備をして家を出てしまう。 

そんな暮らしを続けていれば、 気づけば5月だし、気づけば6月だし、気づけば今日、7月15日である。
こんな風に一年間を過ごしていくと思うと身震いがする。

 
わたしの時間は一体どこにいったのだろう?


前職で、仕事が終わるのをいまかいまかと待ち望み、時計の針が18:00を指すのを見届けて、あからさまにゆっくりな動きで帰りの準備をし、ついでに机の整頓までして、加えて「あっ、そういえば〜」などと何かを探すふりをして18:03を指した頃にタイムカードを切るような生活を送っていたわたしにとって、今の時間の流れはあまりにもはやい。出社したらあっという間に23時だ。もしや誰かがわたしの時間を盗んでいるのではないか?と疑ってしまうほどに。

 

LIGに入ってから、わたしの時間とやらは幾分かは消えてしまったのではないかと時に感じるけれど、みなさんご存知のように時間は平等に与えられている。

きっとわたしが会社のチームのみんなとくだらない下ネタを話してゲラゲラ笑い、涙までもを流している時間も、エクセルを開いたままのパソコンを前に爪をいじりながら時間を過ごしているOLが丸の内にいるだろうし、「来週インドに出張にいってくれないか」とカフェで言われているサラリーマンもいるだろう(この前サンマルクカフェで見かけた)。

 

昔、帰り道を歩いていたら道にガーベラが2本綺麗に並んで落ちていたことがあったのだけど、わたしが会社でバタバタとライターさんと連絡をとっている間に、ガーベラを買って彼女にあげようとしたのに「今日は会えない」なんて気まぐれに言われて、悲しみのあまり道にそっとガーベラを置いていった男の人がいたのかもしれない。

そんな彼らが過ごしているその時間と平等にわたしにも時間があって、何をしているのかもう思い出せないくらい慌ただしく過ごした1日も、確実に積み上げられているはずで(そうでありたい)。

 

最近「時間がない、時間がない」と嘆いていたけれど、結局、時間は放っておくと"流れてしまう"ものなんだと思う。


意識しなければ消えたようにさえ感じてしまうものだから、なおさら「時間は作るもの」なんだなということを心底感じる。

書く時間も、作る時間も、人と会う時間も。


待っていても訪れないから、自分で作らなきゃいけない。忙しい会社にいればいるほど時間の貴重さに気づくなんて皮肉だ。あんなに暇なOL時代を過ごしていたのに。あの時間を今にあてたい。

時間はみんな同じに与えられている。

暇なOL時代、わたしは帰社後に何をしただろうか?

…なにもしていない。時間があっても、何もしていないのだから、時間がなければなおさら何もしないだろう。だからやっぱり時間は作るもの。少しずつ、自分のための時間を作りだしながら日々を積み上げていきたい。そんなことを書きながら、今日もいつのまにか1日が終わっていく。

 

…こんなに早いなんて、やっぱり時間泥棒がいるんじゃないか?と疑ってしまうわたしなのでした。

ナンパな話(執筆2日目)

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「すいません、いま何してるんですか?」

渋谷や新宿など、人の多いところにいくと、よくナンパされる。わたしがあまりにトロトロ歩いているせいか、はたまたヘラヘラした空気があるのか、それとも簡単に落とせそうな雰囲気があるのかは定かではないが、いずれにしても(一般の人にとって)よくない印象を醸し出しているせいで、よく声をかけられる。

ナンパというのはとんでもない技術だなと思う。一瞬横顔を見ただけで声をかけにいくその瞬発能力の高さに、というか、知らない人に声をかけるその勇気に、というか、その生命力の高さみたいなものにわたしは感心してしまう。


余談だけれど、わたしも一時期「自分からナンパしてみよう!」などとくだらないことを思いついたのだけど、実際に街中で見極めをしてみると意外と難しいことがよくわかった。

第一、一瞬で人を判断するというのが難しい。もし「あっ、かっこいい!」と思ったとして、万が一ナンパがうまくいってしまったらどうするのだ? その人に奥さんがいるのか、それともとんでもないヒモ男になりえる潜在能力を秘めた男なのか、わからないじゃないか。ナンパしといて「僕もきみがタイプです」と言われても「やっぱ違いました」というのはナンパのルール的にありなのか? とか、そういうくだらなさに拍車をかけたようなところにまで思考が及んで、いつもナンパを諦めてしまう。

そういうわけでわたしは一度もナンパとやらを行ったことはないのだけど、そこらじゅうの女にほとんど顔もみずに声をかけてくる男の人というのは、どうやらいまもむかしも存在し続けているようだ。

そして、そのナンパについていく女の子も昨今ではかなり増えていると聞く。

「ナンパ?ついていくよ。そぉなんだぁ!すごぉい!って言ってケーキおごってもらう時間と思いなよ。そのあとは帰ればいいんだし」

と友達は語っていたし、ナンパ師をやっている友達も

「意外と10人に1人くらいはお茶に付き合ってくれる」

と嬉々として語っていたので、需要と供給のバランスはさほど悪くはなさそうだ。

 

そしてわたしはというと、実際にナンパについていったことはない。名誉のためにいうと、後日改めて会ったことも一度もない。ただ、その場で仲良く話してしまう癖があるのだ。困ったことに。

 

「こんにちは〜」と話しかけてきた男の人に「こんにちは〜」と笑顔で返し、そのまま「わたしはあなたとご飯にいく気はないんですけど、駅までいくので一緒にいきますか?」とか「いまから買い物にいくので、そのビルまで一緒にいきますか?」と逆に提案してしまう。先手必勝と言わんばかりに。

そうすると大体の男の人が珍しがりながらも、駅やビル前まで一緒についてきてくれるのだ。

別に話をするのが嫌なわけじゃないから、そうやってついおしゃべりに興じてしまう。


「お仕事なにされてるんですか?」
「何歳なんですか?」
「よくここにいるんですか?」

 

と、逆に質問攻めにする。

そうすると、ナンパしてくる人は大体たじろいでしまうのだけど(かわいそう)、でも、こんな街中でたっくさんの人混みの中からわたしに声をかけてきた奇異な人のことならわたしも知りたくてたまらないのだ。許してほしい。

しかもわたしのやっかいなところは、しっかりと名前を覚えてしまうこと。「連絡先おしえてよ、友達になろう」と言われればいつもこう返す。

 

「わたしたち、もう友達でしょう?明日以降このあたりで見かけたら、だいすけさんって声掛けるから、そのときまた話しましょうね」

 

そんなことをいうと「絶対会えないじゃん!!」と男の人は笑い出すのだけれど、これが意外とよく会える。

そういうわけで、わたしには渋谷によくいるけんじさんやだいすけさんと友達になってしまうし、見かけると手をふってしまうし、そうか今日も元気にナンパしてるんだなぁなどとほっこりする。向こうにとってはたまらなく嫌な女だと思うけれど。

 

こういうくだらない遊びをよくしているせいで、声をかけてきた人とナチュラルに友達になってしまうことがよくあるけれど、先日こんなことがあった。

 

「すいません。美容の仕事をしているもので、エステのモデルを探しているんですけど」

 

男は40歳手前に見えた。なんとなく話を聞いているとだんだんに「独立するなら家を買ってからにしなよ」だとか「車も買っておくといいよ、ローン組めないし」とか、そういうエステとはかなり遠い話になっていった。その上、「〜なんだよね、ウン」というときの「ウン」の場所で必ず白目になるという特徴をもった男だった。

話にだんだん飽きてきたわたしは「あへへー」とあからさまな愛想笑いを振りまいていたのだけど、彼は一向に話をやめようとしない。

 

わたしの心の目がだんだんと白目になりかけた頃、ようやく離してくれたのだけど、結局彼から得られた面白い情報は「この人はよくこのあたりで声をかけていて、美容の会社をしている人で、家を持っていて、よく白目になる人」ということのみだった(実につまらない男だった)。

 

話の途中からだんだんと私の脳内は「今日なに食べよう?」へと移り、さようならをした頃には「そうだ、大好きなラーメン屋さんに行こう!」と思い立ち、猛烈にご機嫌になっていた。

 

その帰り道にもう一回ナンパにあいつつも(夏の日曜日の渋谷は活発)、それをご機嫌で交わして(彼はIT企業の営業マンで高そうに見えるジャケットはZARAで買った3000円のものなのだそう!)、ようやくつけ麺やさんにたどり着いたとき、事件が起きた。

 

「ラーメン780円」とかかれた食券機を目の前に、なんと700円しか持っていないではないか!

(うそでしょう?ここまで白目に耐えたのに?)

そう思いつつカバンを探ると、わたしのだらしない性格が功を奏し、なんとカバンの底から100円が出てきた。

(最高!人生最高!アーーメン!!これでラーメンにありつける!)

 

そう思った瞬間、二階から降りてきた店主に声をかけられた。

「すいません。

もう、今日おわっちゃったんで」

 

「え?」

 

慌てて時計をみた。
時刻は21:10。まだそんなに遅くない時間のはずだ。
「世のサラリーマンの味方、ラーメン屋でしょ?」という私の目を察知して店主は続けてこう言った。

 

「日曜は、21時までなんで」

 

……。サラリーマンの味方も、日曜は休むのか……。そうか……。

 

「〜〜なんだよね〜ウン(白目)」を10回くらい省略していれば、わたしはこのラーメンにありつけたかもしれない。「〜〜なんだよね〜ウン(白目)」のおじさんのせいである。そしてそのおじさんと話していたわたしのせいである!間違いない!

 

悔やんだ。非常に悔やんだ。
人と話すのが楽しいからという理由で、ナンパしてきた男の人たちの個人情報を、誰にも求められていないにもかかわらずせっせと集めていた自分を心底軽蔑した。

好きな食べ物を逃すほど、ナンパの男の情報が好きか?答えはもちろんNOである。

 

今後は自分の時間をもっと大切にしよう。

 

結構真剣に胸に誓って、違うラーメン屋さんに出向いたという、くだらなく、じつに軟派な話なのでありました。


文章を書くこと(執筆1日目)

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LIGに入社してから時間が慌ただしく過ぎていって、日々ゆっくり自分のことを考える時間もほとんど取れなくなってしまった。

それはそれでとても楽しいことなのだけど、書いたり創ったりするのが趣味であり癒しの手段でもある自分には時に物足りなく感じることもある。

私の仕事は「編集」と「ディレクション」なので、日々ライターさんとのコミュニケーションを取ったり企画を作ったりするばかりで、自分自身が文章を執筆する機会はほとんどない(月1回のLIGブログくらい)。


そんな中どうやって文章を書く時間を作ろう?と考えた結果、毎日20:00~21:00にチームメンバーが英会話に取り組んでいる(彼らはツイキャスでその様子を流している)間に、私は1000本ノック形式で文章を書く時間にしようかと企んでいる。

そんなストイック形式にしようと思ったのは、編集という仕事に関わっている以上「良い文章」を書いて世に出したいと思うのだけど、「ちゃんとしたものを書きたい」という気持ちが強くなりすぎるとちゃんと時間をつくって書かなきゃと身構えてしまってどうにもこうにもうまくいかないからだ。

結局人が何かをしたいと思った時に弊害になるのは「うまくやりたい」「完璧な状態で取り組みたい」というような自分への無駄なハードルのせいな気がする。
だから、まずは書いてみる。ひたすらに書いていくことで、「書くこと」がもっと日常になったらいいなと。

そういうわけで、もしうまく書けなくても、内容が薄っぺらくても、「書くことがない!」という内容の文章であっても公開していけたら半年も経ったころには少しは違うかもしれないという希望をこめて、文章を綴り始めたわけです。

ちょっとした挑戦だと思って、優しく暖かく見守ってくれたら嬉しいです。

===

昔は「文章」ってなんだろうと考えることがよくあった。

文章は人に何かを"伝える"ことのできるツールであるし、同時に自分にとっても"文章"にすることではじめてわかることもたくさんある(もちろん"お話"も同じ行為)。

人に相談するうちに自分の気持ちが明確になることがあるけれど、自分で書いた文章を自分で読むことも同じ効果が得られると思う。

どんな言葉で書くことが自分の気持ちに近いだろう?と考えることで、自分の本当の気持ちがようやくクリアになったり、次から次に溢れる想いを自分で目にして驚きすら感じることだってある。

わたしにとってそういうモノを書く時間がなくなるということは、同時に自分の気持ちを確かめる時間が減るということでもあって、自分が何に悲しんで何に喜んでいるのかもあまりわからないままに日々が過ぎていってしまう。

文章を綴る(それも自由な場で)機会があることはきっとわたしをわたしたらしめるために、役立つと思うな。文章によって助けられる機会を今までたくさん得てきたから、きっとそれは間違いないと思う。

===

ここまで30分で書き続けてみたけれど、これは毎日続けるのはじつに厳しそうだな…。文章のテーマをフォロワーさんからもらったほうがいいかもしれない…。

こんな感じで何の意味もない文章をネットに垂れ流していいものか心配ではあるけれど、わたしをこれまで頻繁に助けてくれた"文章"を書く大事な機会を得たと思って一生懸命頑張ります…!

Twitter@N908Sa)
Twitter@saeligood)

 

 

 

常識コレクション

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「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」


アインシュタインがいうには、常識とは、たかだか偏見のコレクションのことらしい。
集めたコレクションにこだわりのある人は「ほら、これもいいだろう、あれもいいだろう」と得意げに見せてくる。
だから、たとえ悪趣味なものでも真っ向から否定するわけにもいかない。
あきらかな愛想笑いでその場をしのいで、「ごめんなさい、良さがわからないわ」と心の中で思うしかない。

こだわり満載の常識コレクションをするのは自由だけど、それを「これはいいものだから、お前の棚にも飾れ!」と押し付けると、もちろん問題が起こる。
誰だって自分のコレクションを勝手に荒らされたくないはずだ。

常識コレクションの見せ方は、あくまで「わたしの持ってるのはコレです」という程度に留めたいし、
好きでない常識コレクションを見たときは、あえて言う必要もなく、心の中で「悪いけど好きじゃないわ」と思えばいい。
ぶつかり合う人は、
たぶん互いに近すぎるんだ。

常識コレクションの正しい鑑賞法
「ゆったり眺め合える距離感で」

剥がれないレッテル

 

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「レディと花売り娘との差は、どう振る舞うかにあるのではありません。どう扱われるかです。
私は、貴方にとってずっと花売り娘でした。なぜなら、貴方はずっと私を花売り娘として扱ってきたからです」
これはマイフェアレディ、イライザの台詞。
 
 
イライザの悲しさが痛いくらいわかる。
相手の中に「私」ではなく、「“相手の思う”私」しかいない状態。
 
恋人間でも「私」を見ずに、
あくまで「彼女」として扱い、彼女たるものこうすべきと言う人もいる。
社会でも「女だからね」というレッテルを貼ってくる人の前では、
いつまでもわたしは、所詮女だ。
 
「どう扱われるかじゃなくて、どう振る舞うかだよ」という人もいるかもしれない。
そういう世の中だといいなと思う。
だけど、どう振る舞っても、
最後に立ちはだかる剥がれないレッテルを前に
大きく絶望することもある。
 
 
人は、相手に応えたいと望む生き物だとおもう。
よろこんで欲しいから。
その気持ちは、好きであればあるほど、大事であればあるほど、強くなる。
だからこそ、「大事な人」にどう扱われるか。
その影響は、相手が思うよりも大きい。
 
 
逆に、目の前の人がどういう人なのかは、相手をどう扱うかで決まる。
だってあなたは浮気者でしょう?」と言い続ければ彼はずっと浮気者だし、
「心配だからそばに居なきゃ」を続ければ、彼女はいつまでも一人でいられない人のまま。
扱い方があまりに固定してしまうと、本当のことは見えてこない。
 
コミュニケーションは双方向なので、
こちら側だけが扱いを変えてもうまくいかないことは多い。
 
イライザのように、振る舞いを変えても、気持ちを伝えても、相手に伝わらないこともある。
しまいに「本当の私を見て欲しい」なんて、
そんな悲しいことを言ったり、言わせてしまったりする瞬間が、
少しでも減ったらいいなと思う。
 

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落ち葉だって、花になり得る。
落ち葉を落ち葉たらしめているのは、私であり、貴方だ。