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雨と紅茶と椅子のうえ

愛想くらいはいい子でありたい

「切り取る」シリーズ集

「切り取る」シリーズをまとめて見たいというひとがいたので、いくつかピックアップしてブログにつらつら貼り付けてみる。

 

チェキを買ってなにか遊んでみよう、と思って、景色のなかでも特に「変わりゆくもの」をメインに切り取ってみた。

 

2年間撮りためた「切り取る」シリーズ。

 

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風景は、一瞬で移ろっていく。

 

「なんとかする」台湾初日

 

台湾にきた。

なんでかわからないけど、日常的を慌ただしく過ごしているうちにチーム内でそういう話になっていて、いつのまにか自腹切って台湾にいた。

有給などではなく「台湾で通常業務をこなすように」ということだった。

 
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以前セブに出張に行った時は、向こうでやるべき(依頼されている)仕事があったのに、今回はまだ特にない。つくづく自由な会社だなあと思う。
 
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台北に着いた時間は、朝の4時。
 
雨上がりの街並みには、新聞配達員たちがひっそり静まり返って配達の準備をしていて、それも相まってやや不安な始まりだった。
 
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朝、絶景の写真を撮りに行ったチームメンバーと分かれて、わたしは後輩と2人で街中取材のリサーチへ。 

 

台湾でやるべき仕事をつくるために、じつは出発の2日前にツイッターでこんなことを書いてた。

 
そうしたらすぐに、日本にいる方から台北の企業を紹介してもらえた。 
今日はその人に会いにいくことしか、決まってなかった。
 
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明らかに古すぎる現地のホテルを一泊3000円で予約して、いちにちがはじまる。
 

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はじめて歩く台北を見つめていたら、東京にいる錯覚に襲われる。人が多くて、でも誰もこちらに気を留めていない台北は、東京に似ている。
 

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会いに行ったのはこのスタジオを運営している方。
 
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ここはゲームの実況を配信するスタジオなんだそう。https://www.facebook.com/SHIRYOUKOSTUDIO/
 
モンスターストライクやストリートファイターIIなどをはじめとしたゲーム実況配信や、台湾のYoutuberのマネジメントも行っているときいた。
 

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代表取締役の埴渕さんに事の顛末をはなしたら、優しくほんわかとした口調で、たくさんの企業を紹介してくれた。

それに台北のこともたくさん。

 

どこに取材にいくべきか、どこに美味しいものが待っているのかも教えてくれた。スタッフの女の子たちともお話をして、検索では知ることのできなかった話もきけた。

生の声、こんなにすぐにたくさん集められるなんて。と、ちょっと感動した。

 

最後に「台湾でゲームを広めたいときは連絡してね」と言っていたから、いつか力になれる日が来たらいいなとおもう。

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教えてもらったおかげで「日本の原宿みたいなものだよ」と言われる場所に行くこともできた。

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顔はうつさないで、といわれたストリートミュージシャンの日本人男性はディジュリドゥの練習中だそう。

「いらっしゃいませ」と街中で唐揚げを売るおじちゃんは、3年前に台湾に店を出したらしい。

台湾にも、いろんな人がいる。

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台北1日目にして、たくさんの縁をつないでもらえた。

 

しあわせで「ありがたいなあ」という感謝の気持ちばかり湧き出てくる。

「縁」とか「有難い」とか「感謝」とか、よく聞くし、聞き飽きたし、でもたぶん、本当にこういう時に使う言葉なんだとおもう。

 

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ほんとは少しだけ不安だった。

何も決めてないし、何も特別な仕事ないし(通常業務は合間にこなしているけど)、台北ってなんだよどこだよしらないよほんとにってかんじだし、慌ただしく仕事してたら台北にいたし。

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でもあれだ、なんとかなりそうな気がしてきた。というか、なんとかしよう。

取材したいものも決まったし、訪問する企業もまた見つかった。わたしたちで力になれるような企業だといいな。

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ありがたいなぁという気持ちに包まれて

きょうはおやすみ。

 

プレゼントは日常に 【#アドカレ2015】

目が覚めると、起き上がらずにそのまま手を枕元へと伸ばし、プレゼントを探した。

眠たくていまが何時だかわからなかったけれど、プレゼントが置いてあるかもしれないことだけはずっと頭の片隅にあって、目が覚めるたびに枕元に置いてあるであろうプレゼントを探し、腕を動かした。

12/25 の朝、6歳のときだったとおもう。

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うちのおかあさんは「小さな楽しみ」を大事にするような人で、子どものころから我が家は笑い声が絶えなかった。


もちろんそれなりに辛いこともあった。1年半ごとに訪れる転校は、子どもだけでなく親にも多大なストレスだったとおもう。
 

でも、どんな場合でもうちにはいつも穏やかな空気が流れていた。たとえわたしが不登校になろうとも、姉が自覚のない夜驚症(やきょうしょう)になろうとも、家に流れる空気はいつもゆるやかでほんわかしていた。むしろ、姉が小学のころ夜驚症になっていたことは大人になってから知った。


あの家の落ち着く空気は、おかあさんのおかげに他ならない、とわたしは思っている。おかあさんは本当はすごく心配性だけれど、どんなときもほんの少し楽しむことを忘れない人だから。

 

たとえば夏はスイカの真ん中だけをくり抜きながら食べて見せ、「みてみて外からみたらまだ食べてないように見えない?」なんて言ってわたしたちを見事に感心させ、つづいて「なにやってんの」とげらげら笑わせたし、


12月になると、「12月おめでと〜!」と言いながらリビングにはいってきて、わたしと姉に「はい、これプレゼント」とかわいらしい缶に詰まったチョコレイトをくれた。


とにかく日常にちょっとしたサプライズを散りばめて、得意げな、でもすこしハニかんだ笑顔で「ジャーン」と言いながら、わたしたちを喜ばせてくれる。 

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1996年 12/25の朝、ぼんやりと目を開け、寝転んだまま枕元を探り、去年と同じように手にプレゼントが当たったから飛び起きた。

そこにサンタさんからの手紙があったときの感動はいまでも忘れない。去年も一昨年も、手紙を書いたけれど返事なんてもらえなかったからだ。

 

手紙は、英語だった。筆記体で書かれていた。

 

子どもだったわたしには到底読めるはずもなく、喜んで見せにいったけれど、おかあさんは「うーん、筆記体は読めないのよ。お父さんに読んでもらおうか」などと、とぼけてみせた。

 

当時「サンタは両親だ」と言いはる同級生もいたのだけれど、おかあさんが読めないならこの手紙はほんとうのサンタさんからのものに違いないと本気で喜んだりもした。 

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あの日のことを思い出すたびおもう。
 

もしかしたら、特別なモノなんかよりもずっと大事なものがあるのかもしれないってこと。

 

おかあさんはよくこう言っていた。

「毎日に大きな楽しみはなくてもいいのよ。高級なホテルに行くとか、すごくいい物をたべたいとか、そういうのは全然望んでないの。

かわいい花があって和んだとか、家にいてくれる犬がかわいい寝息を立ててたとか、そういうちょっとしたのを積み重ねて生きていけたら、それでおかあさん満足だな」

 

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もしかしたら、わたしたちの人生に「特別なモノ」なんていらないのかもしれない。


サンタさんが置いてくれたプレゼントそのものより、プレゼントを探すその時間、添えられたハガキ、それにトンネルにくりぬかれたスイカや、なんでもない日にくれたチョコレイト。そういうほんの少しのしあわせのほうが記憶に残っているくらいだから。

 

そういう日常に散りばめられた、ほんの少しの気遣いと、ほんの少しのしあわせ。

 

そういうもののほうがずっと価値があるんじゃないだろうか。

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わたしはもう大人だから、こんどは自分がしあわせを届ける番。もちろん相手は"自分の子ども"に限るものではなく、すきな人たちにほんの少し届けられたら理想だなとおもう。

 

だから今年、もしひとつ願いをかけるとすればこれだとおもう。


「毎日ちいさなしあわせを、誰かに届けられますように」

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・ 

 

このブログは、アドベントカレンダー企画【#アドカレ】13人の「プレゼント」のため

http://www.adventar.org/calendars/1148

クリスマスまでの25日間、「プレゼント」という言葉をタイトルにいれて、毎日違う人がブログを書くというもの。

書くのはなんでもいいよ、と言われたので非常に個人的な、でもみんなに届けたい内容を書きました^^

 

次、12/19にも書きます〜!よろしくお願いしまーす!

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1日目→うじさん(@ujjjj) 

【#アドカレ2015】ビジネスマン必見!!プレゼンをプレゼントに変える「マジックプレゼン術」 - ラーメンとアイコン

2日目→とおるくん(@toru_kunn

プレゼントは宇宙人【#アドカレ2015】 : とおるくんブログ

3日目→山城ティナさん(@tinarubii 

漫画「3種のプレゼントおねだり」【#アドカレ2015】 | ティナの少し長いつぶやき

4日目→みやけようさん(@yo_0104 

プレゼントにまつわる、7つの広告。【#アドカレ2015】 | おはよう!みやけよう!

5日目→かっぴーさん(@nora_ito

サンタにプレゼント【#アドカレ2015】|かっぴー|note

6日目→カツセマサヒコさん(@katsuse_m)

もしもクリスマスプレゼントが宮崎あおいだったら。【#アドカレ2015】 - 人の職業を笑うな

 

明日は、しゅうこせんせい(@siyucco )です! 

続きもお楽しみに〜❤︎

 

変わらないことの安心(執筆7日目)

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だいぶ生活が変わってしまったな……と思うことはよくあるし

自分自身の変化に「おやっ」と思うことも多々あるけれど、

だけど、もっとよく考えたら、昔とさほど変わっていない自分に気づく。

 

それにハッとしたり、少しギョッとしたり。
様々な感覚を呼び起こしながら、でも結局、安心する。

 

いつまでもわたしはわたしなのだから、どれだけ好きに振舞っても、そう大変なことにはならない、という安心。

大きく変わっていると思っていてもきっと変わっているのは表面だけで、好きなものを追求する姿勢だったり、物事に対する見方だったり、変わりたくないと思う部分はちっとも変わらない、という安心。

自分を見失うことはないのだ、という安心。

 

だから、もっと挑んでもいい気がする。

 

なにを怖がっているのかわからないけれど
実際飛び込んでしまえば物事はいやでも回りはじめるし、
回ってしまったことにも気づかないまま日々がすぎて
ある程度過ぎたあたりで「あれ?わたしこんなところまできちゃって大丈夫かしら」と不安になっても、もっともっと深いところはぜんぜん変わらない。帰ってこれる場所がある気がして安心する。

 

焦らなくていいけれど、「えい」と足を踏み出すのも、悪くないはず。きっとね。

 

 

「嫌われたら、それまでだ」(執筆6日目)

「嫌われたら、それまでだ」と心に言い聞かせることは、ひとを生きやすくさせてくれると思う。

この場合の生きやすいとは、自分のこころの赴く方向に自然とうごいていけるということ。幸せの尺度を、他人のなかにではなく自分のなかに置くことができるようになるということ。

 

「嫌われたら、それまでだ」と言い聞かせることは、この「生きやすさ」に直結すると思う。

嫌われないように、とする気持ちは、自分の行動を相手の反応にゆだねることになるし、そうなればそうなるほど自分の行動は抑圧されていく。

そうしていくうちにどんどん自分のやりたいことがわからなくなるし、自分の言いたいこともわからなくなる。相手の反応が気になり、相手の顔色ひとつでハンドルをギュンと切るような生き方になってしまう。

 

……昔は「嫌われるなんて理由があるに違いない」と思っていた。

あまり激しく嫌われまくるような経験はしてこなかったけれど(鈍感なだけだったらごめんなさい)、それでも人並みに誰かとぶつかったり、誰かに不快な思いをさせてきた。根も葉もない噂によって誰かがわたしのことに文句をつけはじめたときも「きっとそんな噂を信じさせてしまう自分の行動があったのだろう」と、どんな場合も「すべての原因はじぶん」と思うようにしてた。

 

思春期のころは随分気にしたものだけど、そもそもひとを嫌いになることがオリンピック開催程度のスパンでしか訪れない性格からか、年齢を重ねてからはそういった煩わしい思いとはだいぶ無縁になった。

でも、やっぱり友人のなかには「なんか悪口を言われている気がする」とひとの気持ちに敏感な子もいるし、「わたしがダメだから」と自分に原因をおこうとする子もいる。
そういう子たちを目にしていると、ちょっと思う。

 

「たぶん、きみのせいじゃないよ」と。

 

もちろん自分が相手を傷つけていないか、自分の行動が悪かったのではないかと振り返る時間もとても大切だし、たしかに物事の原因はだいたい自分なので、そう思うことは決して悪いことだとは思わないけれど、少し心配になる。

 

だって、嫌われないようにしたって嫌われるときは嫌われるんだもの。

 

笑っても嫌がられるし、黙っても嫌がられるし、取り入ろうとしても嫌がられる。
やさしくしては気持ち悪がられ、反抗すれば生意気だといわれ、同意しておいてもつまらないやつだと言われる。ちょっと頑張ってみて、それでもダメだったらもう諦めてもいいんじゃないのって。

 

誰にでも好かれて、誰にでも愛される人は残念ながら、なかなかいない。嫌われない程度の影のうすいひとならたくさんいるだろうけど、それがイコール好かれているとは到底言えない。

たとえば大人気の芸能人には、強烈なファンがいる一方で強烈なアンチがいるのもどうしても否めないし、その文句の多くは「なんかきらい」という(残念ながら)生理的なものだったりするのだから、もうどうしようもない。

強烈なファンがいるひとは、一方で強烈に嫌われるものだとわたしは思うし、その濃淡が濃くなれば濃くなるほど、強く愛されている証なのかもしれないと思う。

 

といっても誰もが、「嫌われても平気」といえるほどつよいわけじゃないし、強烈なファンなんて要らないから嫌われたくないんですって思う人も多いだろうし、わたしもできる限り嫌われたくないので、自分自身の行動には気をつけて生きていたいと思うけれど、

 

でも。 

ちょっと自分を振り返るくらいの時間はもちろん大事だけど、あまり自分を責めないでねって、やっぱり思う。それにある程度好きに振舞っても、大丈夫なんじゃないの、と彼女に伝えたい。

 

いまのままで十分わたしは好きよ。

 

そう言うわたしの話を聞きながらも彼女はいう。

「さえりはそう言ってくれるけどさ、他のひとはわかんないじゃん」 

 

そうかなあ。まだ見えない誰かについて心配するより、いまのまま好きに生きてくれるほうが、きっと多くの「好きだよ」と言ってくれるひとを集めることになると思うけど。

 

……ストレートに伝えることができないから、こんなところでこそこそ書いてしまうけど、もうすこしちゃんと伝わればいいな。

 

思うままに生きれば、ある程度好かれたり、ある程度嫌われたりする。だったら「嫌われたら、それまでだ」と心に言い聞かせながら、自分の思うように生きて欲しいな。ほんの少しでいいから。ね。

 

やさしくなりたい(執筆5日目)

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自分でもいやになるくらい、人にやさしくできないときがある。

やさしくしたいと思うのに、それができなくて
なんだかツンケンした物の言い方になってしまったり、
年配の人をみて「席を譲ったほうがいいかな」と頭の端で思いながらも寝たふりをしてしまったり。

さらに人にやさしくできないボルテージが高まると、悲しいことに相手の好意をないがしろにしてしまうことさえある。

わざわざくれた連絡をほったらかしにしてしまったり、
せっかく気を使ってくれた人に、言わなくていいことまで吐露してしまったり。

相手のあまり良いとは言えない反応をみて、はたと気づく。

「やってしまった」

結局その直後に自己嫌悪の荒波に飲まれることになるのだけれど、その瞬間はどうしてこうも気づかずに、こんなに簡単に過ぎてしまうんだろう。


……人にやさしくしたくなるときの心の動きはよく覚えている。

自分の心の中は、濁りなく澄み渡っているような静けさがあって、ぬるま湯の中みたいに気持ちのいい柔らかな感覚に浸っていく。そうして、物事がひとつずつ静かに見えるようになる。

ひとつひとつ丁寧に見ていると、それらの面白さに気づく。不思議さに気づく。よいところに気づく。

わたしはそのときすでに暖かな気持ちなので、ひとつひとつの出来事が愛おしく、すこし「ん?」と思うようなところも「まあ、それもひとつの特徴よね」と微笑んでいられる。

ぽこぽこと水が湧き出るときのように、出来事の細部まで愛でられるような余裕が徐々にあふれてくる。

心も体も軽やかなので、人にも席が譲れるし、一手間かけておばあちゃんに手紙なんかも書いちゃう。

次々にあたたかい気持ちが湧いてきて、それこそが自分に心地よく、それゆえに人にもやさしくできる。そう、あのかんじ。

 

結局、自分の気持ちに余裕がなければ、人にやさしくすることなんてできないんじゃないかと思う。自分の心が荒波の中、人に"頑張って"やさしくすることはできるけれど、ちょっと思い通りに進まなくなるとすぐに焦ってしまうし、もしかしてそういう時に人によっては「やさしくしたのに」なんて悲しい言葉を吐くようなことにもなりかねないのかもしれない。

やさしくしたから何かあるだろうとか、
やさしくしてるんだから褒められてしかるべきだとか、
自分が"やさしさ"を頑張れば頑張るほどに、やさしさは純度を失っていくんじゃないかな。

……そもそもわたしは、どんな場合でも人にやさしくしよう、と思って徹底できるほどストイックではないし、自分の心身を削っているときに微笑んでいられる気がしない。

 

それだったら。

 

自分の心を整えるのが先だ。

 

自分の心を整えて、心に隙間のある(余裕のある)生活を送れるようになれば、先に述べたみたいに、湧き水がぽこぽこ出てくるようにやさしい気持ちが湧いてくるはずだ。

 

ぽこぽこぽこぽこ湧いてくれば、水たまりができて、泉になっていく。

 

その水がひたひたと行き渡るせめてその範囲だけでも、やさしい気持ちで包むことができるはず。

 

最近、人にやさしくなれないなと思うことがよくある。自分の湧き水の入り口がもしかしたら詰まっているのかもしれない。

少しでもいいから、整える。…ちょっと意識してみよう。
この週末は、そういうことをぼやっと思った土日になった。

  

そういえば、そんなときにおすすめな方法を思いついたんだった。

日々の生活を何気なく送ってしまうと、なんの意図もなしに余裕が奪われてしまうから、 そういうときのとっておきの方法。今日は寝る前に試してみよう。

 

生きているだけで余裕が失われていくなんて不思議な話だけど、 すきな言葉を思いつく限りひねり出すだけで、ほんの少し幸せな気持ちになって、それでやさしさが湧いてくるんだったら。

今夜はそうして過ごしてみよう。

 

パリっとした生き方(執筆4日目)

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悪びれない女の人に憧れる。

わがままで男の人を振り回していても、自分自身に正直に生きているせいなのかちっとも悪びれないその様子に、惚れ惚れする。


女の子の友達に、悪びれずに世間一般でいう"浮気"をする子が何人かいるのだけれど、彼女たちにとって、付き合っている人がいるのに他の人と好きに遊びまわるのは、とても自然なことみたいだ。ちなみにここでいう「遊びまわる」とは、一緒にゴハンにいくなんて可愛らしい内容ではなく、キスをしたりセックスしたりすること。
 

「なんで彼氏がいるのに、遊ぶの?」

 

と聞けば、彼女たちはだいたいこう答える。

 

「だって、いいなと思ったんだもん」

 

こういうときわたしはその友人のことが大好きになる。悪びれないその様子。
それでいて、決して寂しい女なんかじゃないところがいい。寂しくて、誰かに認められたくて、誰彼構わずついていくような女とは違う。彼女たちには確固たる意志があるし、楽しむための逞しさも持っているし、加えて彼氏との関係も良好だ。

その上、もし何か厄介なことが起こり始めると(それは大抵、浮気相手が本気になってしまったとか、そういう健気なはなしなのだけど)、「もう会わないことにしたの」なんて平気でいう。

友人とこんな会話をしたことがある。

「彼氏がいるけど、いいなと思ったらホテルにいくよ。でもちゃんと条件をだすの。ひとつめは、ホテルのお金は全額あなたがだすこと。ふたつめは、わたしは彼氏が大好きだからあなたとは何があっても付き合わないということ。この二つだけ。」

 

「でも、後日、やっぱり付き合ってって言ってきたりしない?」

 

「言われることもあるよ。でも、それは約束違反よと告げて、もう連絡を取らない」


なんて潔いんだろう…。情がないというのかもしれないけれど、彼氏にバレたら?とか、相手が本気になったら?とか、そういう未来のことよりも「今」にフォーカスを当てていて、それでいて未来をも守ろうとする計算高いところが好き。

結局のところ何かにつけてメソメソしてしまう、湿っぽい女ではなく、パリッと乾いたその心の潔さが、気持ちいい。

そういう彼女たちをみていると、なんだか猫みたいだといつも思う。

 

飼い主がいながら、いろんなところでそれぞれの名前をもらう。
時には「みーこ」と呼ばれたり、「くろ」になったり。本当の名前はシルビアなのに、そんな様子を見せずに、可愛がられ、餌をもらい、擦り寄り、気が済むと去っていき、彼らが寂しくない頃にまたふらっと訪れる自由な猫たち。だからといって、首輪をつけようとしたら嫌がるような、そんな猫。

 

わたしもそういう猫になりたい。悪びれなくて、潔くて、自由で、それでいて人生を楽しんでいるような。

 

でも、やっぱりなれない。
……わたしがなれるとすれば、湿っぽい猫だ。

昔、友達の男の子に「きみは"ティファニーで朝食を"の、ホリーゴライトリーみたいだね」といわれたことがある。

「猫に名前がないのはちょっと不便だけど、彼は私のものじゃないから、名前をつける権利はないの」。

ティファニーで朝食を (新潮文庫) 

 

こんなことを言ってのけるホリーゴライトリーは、とても自由で潔い女の人のようだ。でも、実際に読んだことのある人ならわかるかもしれないけれど、ホリーゴライトリーはちょっと湿っぽい。

唐突なところもあれば、自由主義を唱えるところもある。でも結局誰かのものになりたい気持ちもどこかにあって、でもなれなくて、結局大好きな愛猫さえも自分で手放しておいて、自分で後悔して泣いたりする。きっと自分が好きだけれど、自分自身でさえ手に負えなくてつらく思うときもあるのだと思う。


彼女は、自由だけど少し湿っぽい女なんだ。そしてその女に似ているといってきた友人は、かなりわたしを見抜いていたんじゃないかと、ちょっとヒヤヒヤする。

…ホリーの真相は別として、結局わたしはカラリと乾いた生き方は向いてないと最近よく思う。猫のような彼女たちとは遠い。あのパリっとした生き方に憧れて何年も生きてきたけれど、25歳を目前にして、自分には向いていないことに気づく。

ホリーはこうも言う。

要するに『あなたが善きことをしているときだけ、善きことが起こる』ってことなのよ。いや善きことというより、むしろ正直なことって言うべきかな。規律をしっかり守りましょう、みたいな正直さのことじゃないのよ。…(中略)…不正直な心を持つくらいなら、癌を抱え込んだほうがましよ。

ティファニーで朝食を (新潮文庫)

 

わたしは、最初に述べた多くの場所でかわいがられるような猫にはなれないけど、ホリーのいうように自分の心に正直な「善きこと」は続けていきたい。

パリッとした生き方に憧れながら、少し悪びれながら、ときに自分のしたことで自分で泣いたりしながらも、湿っぽく自由に生きていけたら、それで十分なのかもしれない。

せっかく女に生まれたんだもの。自分の心に正直に生きられるくらいの責任はもちたい。自分の心に、恥じないように。